人間よ英知と愛を
 − 広島からの出発 −

これは著者 橋爪 文さんの  
承諾のもとに、御本人発行の小冊子を
「シタールプレーヤーのホームページ」サイト
の責任で掲載するものです。    

橋爪  文    著   
著者 連絡先          
〒242-0001神奈川県大和市
下鶴間
2−3−12 101   
 


 私は広島の生き残りのひとりです。

 一九四五年八月六日、十四歳の私はいつものように、学徒動員として勤務していた郵政省広島貯金支局に出勤しました。私はまだ女学生でしたが、当時の日本は、健康な若い男性はみんな戦場に派兵されていて、国内では主婦や生徒たちまで勤労動員を強いられていました。

 八時すぎに職場に着いた私は、鉄筋コンクリート建てのビルの三階の窓辺に立っていました。

 突然、窓の外が異様に鮮烈な閃光を発しました。幾千もの七色の虹の束が鋭く私の目を射ました。

 「太陽が目の前に落ちてきた!」

 一瞬そう思ったまま私は意識を失ったようです。気がついたら渡しは広い部屋の中央の柱の根元にしゃがんでいました。そこまで飛ばされたようです。

  私は、日頃訓練を受けていた被爆時の姿勢、眼球が飛び出さないように人差し指と中指で両眼を押さえ、鼓膜が破裂しないように親指で両耳を塞ぎ、腹部が裂けて腸が飛び出さないように床か地面に腹這う形をとろうとしましたが、あたりは真暗で狭く窮屈な場所にいるらしく、腹這うことはできませんでした。

 私の右の頭部から、手を伝って生ぬるいものが流れてきます。異様な無言の中で私は、上階に油脂焼夷弾が落ちて、油がしたたり落ちてくるのだろうと思いました。戦争末期の日本の主要な都市、東京・大阪・名古屋・横浜ほかは米軍の油脂焼夷弾の爆撃を受けていました。

  私は両手の指で目と耳を押さえたまま身をちぢめて、炎の海になっているであろう四階事務室の中を逃げ惑う級友たちを案じていました。

 塵埃の闇がぼんやりと明るくなってきました。私はそっと両手を離して目の前に広げてみました。べっとりと掌いっぱいの鮮血でした。私の机には救急袋があります。それを取りに行くために立ち上がった私は、あ然としました。

 部屋中の机,椅子、書棚などが散乱し山積になっています。やっと自分の机を探して三角巾で頭を押さえたとき
 「逃げろ!」
 と誰かが叫びました。

 もうもうと煙る薄闇の中から同僚たちが一人、二人と立ちあがり出口へと向かいました。
 私たちのいた三階の窓の外には高圧線が走っていましたが、その電線が吹き切れ、螺旋状に巻きあがって部屋中になだれ込んでいます。掻き分けながら進んでいると、一人の同僚が電線にからまって死んでいました。みんなからニックネームで呼ばれ愛されていた男性職員でした。その蒼白な死顔が私の全身を凍らせました。しかしその後つぎつぎに目にする情景は、この世のものとは信じられないことばかりでした。

 私は全身に破片を浴びていましたが、特に頭部からの出血は凄まじく、忽ち足もとに血溜りができるほどでした。同じ職場の女性、友柳さんが叫び声をあげて、私を抱えるようにして近くの日赤病院へ運んでくださいました。途中燃えるものの何もない地面のあちこちが太い炎を噴いていました。

 日赤病院は悲惨の坩堝でした。

 赤黒く焼け爛れカボチャのように膨れあがった顔、ぼろ布のように垂れ下がった自分の皮膚を曳きずり、皮膚のぶら下がった両手を胸の前に垂らしてさまよう人びと、飛び出してくる眼球を必死に押し込んでいる人、腹部を押さえて腸を押し込んでいる人、その力もなくて自らの腸を垂らしてさまよう人、性別も年令もわからない黒い人、人、人。

 今朝までそこにあった穏やかな街は、すっかり消え失せています。

 「いったい何が起こったのだろう?
  悪夢のなかにいるのだろうか?」

 呆然としたまま私は再び意識を失いました。

 友柳さんが医師を呼び止めたようです。

 「大変な出血だ!
  眠らせると死にますよ!」

 そういって医師の足音が去ると、彼女は大声で私の名前を呼びはじめました。

 なんともいえない心地よい睡りが私を暗く深いところに吸い込むと、はるか上の方で彼女の声がして私を地上に呼び戻します。そのようにしてどのくらい時間が経ったのでしょうか。激しい雨が降り、敵機の再来があった様子をおぼろに覚えています。

 私は生命をとりとめたようです。

 安心した友柳さんが両親の安否を尋ねて去った後、日赤病院に火が廻ってきました。このとき、もうひとり私を助けて下さった人がありました。十六歳の少年飯田義昭さんでした。

 彼はその朝、妹と二人で自宅にいて被爆しました。二人は崩壊した家屋の下敷きになりましたが、彼は辛うじて這い出すことができました。しかし妹は崩れた建物の底の方で声がするだけで、どうしても助け出すことができません。

 火が廻ってきました。姿の見えない妹が訴えました。

「熱い!熱い!
 お水をかけて!」

彼は声のするあたりへ防火水槽の水をバケツでザブザブかけました。

 「ありがとう兄さん!」

 火が足もとまで迫ってきました。
 火の下から、息絶え絶えの妹が叫びました。

 「兄さん逃げて!
  お願い 早く逃げて!」

 すっかり火に囲まれた彼は、妹を火中に残してそこを離れるほかはなかったそうです。

 妹は十四歳だったそうです。

 彼は私の姿の上に妹を重ねたのでしょう。動ける人の殆どが逃げたあとも、彼は逃げようともせず、重傷の私に付添っていてくれました。

 広島市は昼夜を徹して燃えました。

 日赤病院はすべての窓から巨大な炎の舌を噴き、炎はごうごうと天地を轟かせて哮り狂いました。

 目も眩む黄金の炎の下、金粉のように降りそそぐ火の粉を浴びて、私の髪の毛もパチパチと音を立てて燃えました。 歩ける人はとっくに逃げ去り、這える人は這って逃げ、地に横たわるのは屍と瀕死の人たちだけでした。

 その夜彼は、水を求めて死んでいく人びとに一口ずつ水を与えて歩きました。

 いまこの地上で立って歩ける人間は、彼ひとりでした。

 被爆後、私の地域では十数人の生存者が、焼け残った木切れやトタンを拾って夜露をしのいでいました。みんな重傷を負い、飢えていましたが、誰もが傷の痛みや空腹を感じる力さえないほどの心身の極限状態にありました。医療団、救援物資ほか一切の救助はありませんでした。後になって知りましたが、広島の惨状があまりにも酷かったので、アメリカは世界の非難を恐れ、また放射能影響調査を独占するために、そして日本は国民への衝撃を恐れて事真を隠蔽し、占領軍の指示に従って外部との折衝を絶ち、広島を一種の真空状態に置きました。

 八月十五日、虫けらほどの生命を辛うじて保っている私は、荒涼とした炎熱の瓦礫の街を朦朧と歩いていました。向こうの低い山から湧き上がる逞しい入道雲が、何かキラキラ光るものをこぼしはじめました。不思議に思っていると、入道雲の中から一機の飛行機が現れて、ビラを撒きながら飛び去って行きました。傍に舞い下りた一枚を拾いあげてみると、終戦の知らせでした。心身ともに衰弱し切っていた私には何の感慨もありませんでした。私はビラを捨てると、またふらふらと焦土をさまよいました。

 生き残って焼野で昼夜を過ごすわずかな人たち。誰ひとりビラのことには触れませんでした。みんな重傷を負い、飲まず食べず、明日は、あるいは一時間後には、この中の誰かが欠けても当然というような生死の境にありながら、誰も傷の痛みや空腹も訴えず、何の不満も口にしませんでした。お金もなく、家もなく、一切の欲望もない私たちは、夜になれば焼跡の木片を拾って焚火をして明かりとだん煖をとりながら談笑しました。そこには、いまこのとき「生」を共有している人間同志の無心と無類の明るさのみがありました。

 世の中が社会生活を取り戻しはじめた頃、風の便りに友柳さんが原爆症で亡くなったことを知りました。飯田さんは交通事故で亡くなりました。

 毎年八月六日がくると、私の背に重いものが覆いかぶさるようで、一日中うつむいて過ごしました。三十年も四十年もそれは続きました。 私を救ってくださった人が二人とも亡くなり、私は生きている。なにもしなくていいのだろうか。

 でも、あの日のショックからどうしても立ち直ることができませんでした。あの日のことを考えただけで私の全身を悪寒が走り、苦痛のあまり嘔吐するのでした。

 十年ほど前、私が住んでいる鎌倉市に近い横須賀港に、核搭載疑惑の米国潜水艦が入港することになり、私の二男がその入港反対の座り込みに行くといいました。彼は十六歳、ちょうどあの日の飯田少年と同じ年令でした。

 「私にできることは何だろうか?」

 詩人である私は、はじめて原爆の詩を書きました。

 不思議なことに四十年近くも私を苦しめた背中の重いものが消えました。少しづつ原爆について書いたり、話したりすることができるようになりました。

 弟の原爆死に触れることもできました。

 弟は七歳でした。あの日、弟は小学校の校庭の鉄棒で遊んでいて、背後から光線を浴びました。家に向かって逃げ帰る弟の服はメラメラと燃えていたそうです。

 自分自身も傷ついている母は、弟を背負って川へ避難しましたが、川原にはすでに大勢の避難民がいたため、母は弟を抱いて土手に座りました。瀕死状態の弟はしきりに水を求めたそうです。水辺の人が川の水を両手にすくって次の人へ、また次の人へ。母の掌に届いたときには、もう水は殆どありませんでしたが、たとえひと湿りでもと母はその手を弟の口に当てたといいます。

 その夜、瀬戸内海の満潮(うしお)は川を遡り、多くの人びとを呑み込んで海へ運びました。

 川原の草の上に横たえられた弟は

 「こわいよう!
 「こわいよう!
  ぼくに なにか掛けて!」

 そう云って裸を恐れたそうです。父は一晩中草をむしって、苦しみ悶える弟のからだを覆いつづけました。

 弟は背後全体に火傷を負っていましたが、特に素肌だった手足の皮膚は大きなスルメ烏賊を焼いたように、くるりと前方にめくれていました。

 私たちの地域の避難場所は、広島から四キロメートル北方にある戸坂(へさか)小学校に指定されていました。 翌日、重傷者は舟で運ばれ、歩ける人は徒歩でそこへ向かうことになり、重傷の弟は舟に乗せられていきました。私たち家族も全員傷ついていましたが、歩いていかなければなりませんでした。

 四キロが四十キロにも思われるほどのつらさで炎天下を喘いで、私たちがやっと戸坂小学校へたどりついたとき、先に運ばれていた弟は校庭の片隅でひとりで、昇天していました。

 「お母さんよんでごらんなさい!
  いま、いまですよ 坊やが息をひきとったのは!」

 傍で弟の最後を見守っていた重傷の青年が、我子を見つけて走り寄った母にそういいました。弟を抱きしめて嘆く母、その傍で青年もひとり静かに昇天していきました。

 

 原爆被害について触れると、よく被害者意識を指摘されます。

 私はあの日人間の原点をみました。

 人間の原点には被害者意識はなく、そこにあるのは生命とは何かということだけでした。

 戦争は理由を問わず悪です。

 戦争は人間を狂気にします。

 広島には石造りの小さな屋根型の慰霊碑があります。

 「過ちは二度と繰り返しませぬ」

 と刻んであり、人類の上に戦争という過ちを犯し、人間が人間の上に原爆を炸裂させるという暴挙を犯した、現代の人類としての謝罪と、この過ちを二度と繰り返さないという誓いがこめられています。

 数年前、私はハワイに行く機会があり、真珠湾へ足を運びました。

 パールハーバー沖に白い慰霊碑が浮かんでいますが、私たちはまず上陸で、勇ましい日本軍や馬上姿の昭和天皇のクローズアップ、そして真珠湾奇襲攻撃のフィルムを見せられます。(日本軍の暗号はすべて解読されていた事実があり、空母などはすでに避難させていたにもかかわらず、ワシントンではハワイへ知らせなかったという説もあります。そうだとするとハワイは囮にされたことになります。)

 つぎにニ、三十人ずつボートに乗せられて海上沖の白い建物へと運ばれて行きます。建物は戦艦アリゾナ号を跨ぐ形で造られていて、海底に沈んだ艦体の表面をほぼつぶさに眺めることができます。海面に突き出した太い煙突のまわりには、いまも油が浮き、半世紀におよぶ錆に覆われた艦内には乗組員兵士たちがそのままとどめられているということです。もうすでに魚たちについばまれ、腐蝕して原型は失っているでしょう。

 しかし、もし私のこの足下に自分の息子たちがいるとしたらと考えたとき、私の全身を悪寒が走りました。遠い深海ではない、手の届くすぐそこにある遺体をなぜいまもなお地上に戻さないのでしょうか。戦争を正当化し、戦意を鼓舞する覇権者の、人間としての愚かさをそこに見た私はまちがっているでしょうか。

 華やかな献花に飾られた慰霊碑正面の戦死者たちの名前の前で、私は見知らぬ犠牲兵士たちに心の中で、ひとりの人間として語りかけながら立ちつくしました。

 広島の慰霊碑にも、いつもささやかな花が捧げられています。それは真珠湾のような華々しい軍隊の献花ではなく、ひとりひとりの人間の愛と祈りの姿のように思われます。

 またあとひとつ触れたいことは「ABCC」についてです。これは日本でも殆ど知らされていないことですが、戦後広島に進駐してきたアメリカは、すぐに、死の街広島を一望のもとに見下ろす丘の上に原爆傷害調査委員会(通称 ABCC)を設置して放射能の影響調査に乗り出しました。そして地を這って生きている私たち生存者を連行し、私たちの身体からなけなしの血液を採り、傷やケロイドの写真、成長期の子どもたちの乳房や体毛の発育状態、また、被爆者が死亡するとその臓器の摘出など、さまざまな調査、記録を行いました。その際私たちは人間としてではなく、単なる調査研究用の物体として扱われました。治療は全く受けませんでした。そればかりでなく、アメリカはそれら調査、記録を独占するために、外部からの広島、長崎への入市を禁止し、国際的支援も妨害しいっさいの原爆報道を禁止しました。日本政府もそれに協力しました。こうして私たちは内外から隔離された状態の下で、何の援護も受けず放置され、放射能被害の実験対象として調査、監視、記録をされたのでした。

 しかもそれは戦争が終わった後で行われた事実です。私たちは焼け跡の草をむしり、雨水を飲んで飢えをしのぎ、傷は自然治癒にまかせるほかありませんでした。

 あれから五十年、「ABCC」は現在、日米共同の放射線影響研究所(通称 放影研)となっていますが、私たちはいまも追跡調査をされています。

 このように原爆は人体実験であり、戦後のアメリカの利を確立するための暴挙だったにもかかわらず、原爆投下によって大戦が終結し、米日の多くの生命が救われたという大義名分にすりかえられました。このことによって核兵器の判断に大きな過ちが生じたと私は思っています。

 広島は核の時代の出発点でした。アメリカのみが厖大で貴重な資料を手中にしての出発点でした。しかしアメリカは負の遺産を自国史の上に刻んだことを忘れてはならないと思います。世界唯一の超大国アメリカは、人間が人間の上に原爆を炸裂させた世界唯一の国でもあります。

 また、私を含めて二十世紀後半を生きている地球上のみんなは、人類史の上で、二十世紀のこの時期、地球上のすべての命を絶ち、環境を破壊することが可能な核を持った責任の重さを知らなければなりません。

 

 被爆者はそのひとりひとりが重い体験をふかく抱いて生きています。誰も多くを語ろうとしません。しかし私たちに共通した思いは、二度と被爆者をつくってはならないということです。

 原爆は全人類の生命を奪うだけでなく、動植物も含めた地球上のあらゆる生命を絶ち、残留放射能は地球の未来をも否定するなど、これは万物創造の神への冒涜であり、いかなることがあってもおかしてはならない罪悪です。

 国連憲章で人間の平等がうたわれてから五十年経ちますが、いまも地球上では覇権の野望や差別を起因とする戦争が絶えません。そして人びとは核の恐ろしさを知りながら、大国の核実験、核抑止論、保有国の核の傘の下で安心したい人たちetc、核信仰は現在も続いています。愚かなことだと思います。

 先にも述べましたように、私が原爆について触れることができるようになるまでに四十数年の歳月が必要でしたし、私の筆では到底表現できない事実でした。

 私はいまも原爆について書いたり話したりすることに、ためらいを持っています。けれども被爆当日そしてその後の五十年余、原爆症に悩まされながら亡くなった人びと、今も亡くなって行く人びと(年月が経つに従って原爆症は、人体の深部を広汎に浸食してくることも立証されています。)など、幾多の原爆犠牲者を重い、また現在と未来の地球に大きな脅威を与えている核のことを考えるとき、広島で生き残ったひとりとして使命感も感じるのです。

 被爆の翌日、重傷の私は我が家ヘ帰るために、瓦礫と化した街を南から北へと縦断しました。物音ひとつなく、生きて動くものの全くない死の街でした。しかしその焼土から植物が芽吹き、生物は甦りました。(ただし巨大化、高性能化された現代の核兵器では生物の再生は不可能に近いでしょう)

 私は信じたいのです。

 人間の英知と愛 を。

 そしてたとえ微力であっても、「生命の尊さ」を次代へ伝えることができれば、それが原爆に生き残った私自身の証のように思います。

 


少年
ここから広島の郊外

夏草の茂る練兵場

午前八時十五分

少年はこんなに朝早くから

昆虫でも探しにやってきたのだろうか

突然

一条の閃光が少年を貫いた

彼は一本の火柱となった

一瞬 炭素と化した少年は

焦土に大の字に横たわり

空洞の眼を大きく見開いて

天を睨んだ

空洞の口を大きく開いて天に叫んだ

母を呼んだか

兄弟を 友を呼んだか

痛みの叫びか

一本の歯もない

一片の爪の白ささえもない

からからと炭に焼かれた少年を

なおも天と地の灼熱が焦がしつづける